都会と言うには、片田舎。 田舎と言うには、空が遠い。
そんな京都で御座いますが、
頂き物の松茸酒で、
秋の到来を、
感じる事が出来ます。
というか、松茸酒!
この様なモノがある事を、
この度初めて知りました。
フタを開けると、
松茸の香りが・・・する。
物凄くする!
ありがたや~、松茸様~!
っと、拝みたくなる有り難い品のはず。
しかし・・笑ってしまうのは何故でしょう。
店頭のカウンターに置いて有りますので、ご来店の際は是非一度嗅いでみて下さい。
笑って、酔える、幸せなお酒です。
ペランと申し訳程度に入った松茸が愛らしい松茸酒も良いですが、
本格的な秋の味覚として来た、
新米。
これぞジャパニーズソウル!
このお米は、
昨冬に地元新潟へ帰った友人が、
始めて作ったお米という事で、
送られて来ました。
きっと、「さぁ喰ってみろよ!」
という挑戦も込みでのお裾分け。
イッタダッキマース!と、
喰うべきなんですが・・・、
ちょっと勿体無くて、
中々食べれません。
食べない方が勿体無い、
ってのは分かってる積もりなのですが。
とても安いお米があったとして。
毎日食べるお米だから、安い方が助かるのは確か。
ただその時米は、対価を払うのが「勿体無い」存在に成り下がり、
米の存在自体が薄まり、やがて空想の産物の様に感じてしまいます。
米の形した、他の何かに。
今回貰ったこの米は、新潟に帰った彼が、
どうしようもない人物像の彼が、何は無くとも形にして、
自分の食料として「産んで」くれたという事実。
この事実は、美味いの安いの言う問題では無く、
食べさせて頂いている有り難味を、とてもダイレクトに感じさせてくれる事において、
価値を付ける等という事さえ憚られる、そんな風に感じ、
食べる為の第一歩が、どうにも踏み出せないのです。
米もガソリンもジーパンも家賃も自転車も、安いに越した事は無いです、ホント。
でも、浮かした金を回す先は何処なのって話になると、
どうせロクな使い道さえ浮かばない自分ですから、無理した安さは無意味に等しい。
それよりも「有難う」と思いながら支払える対価の方が、
自分にとっては重要な事です。
このクソ狭い日本、人が密集するのは避けたいですね。
この米が売れないと、田舎暮らしが立ち行かなくなり、
彼が京都へ帰ってくるかもしれません。
そんな事になると困るので、米をナムナム拝んだ後は、貪り食ってやろうと思います。