「日本人は、水と平和はタダだと思っている」
なんて揶揄する言葉を聞いた様な聞かない様な、無責任な感じで記憶しておりますが、
「
貴様もそう思っとるのか!」と問われると・・・答えは素直に
はい!です。
タダじゃないのは分かっている。そして、生命維持の為の最重要要件である事も。
けれど、タダに思えてしまうってのは何でかってーと・・・やっぱり「慣れ」なんでしょう。
慣れが悪い訳ではありません、それがこの国の日常であり、実情である訳ですから。
そんな限りなくタダに近い、水と平和に並べたい個人的推薦物、
その名は「
ママチャリ」。
安く買う際の予算としては、もう¥1万なんて話にならなくて、
¥5~6千で買えてしまう。しかも、いつでも。
それが安全か如何だとか、寿命がナンたら言ったって、
その値段で、移動手段を得る事が出来ると言うのは事実。
人が一日アルバイトして稼げる対価で、充分お釣りが来る。
日常生活に必要な金銭に対しての、自転車の価格の割合が、
こんなに低い国ってのは、かなり珍しいんじゃないでしょうかね?
(ってまぁ外国の事そんなに知らないんですけど)
コレは凄い事です!ホント。
(もしかして)世界で最も簡単に自転車が買える国 日本!
ただ、そのあまりに大き過ぎる恩恵の中では、
「
自転車を求める気持ち」というモノが希釈され、
どうにも明確に見え辛くなっている様にも観じられる。
コレは、少し残念な事。
自転車屋として好ましい態度では無いかもしれませんが、
自転車文化と言う言葉があまり好きではありません。
文化論を振りかざして、ママチャリを善悪で語る人は、もっと好きではありません。
ママチャリがギリギリまで安価で、製品として不安定な状態で出回っているのも、
やはりニーズがあるからこそな訳で、それはそれで良いと思います。
ただ、自分の生活の中で「
自転車の存在を最大限小さくしたい」、
つまり限り無く安価に手に入れたいと思う人と、
生活の目的の中で「
自転車の存在が大きくなってしまった」人とでは、
同じ自転車を見ていても、富嶽三十六景よろしく、同じ物を見ている訳ではない。
我等が日本と言う国は、善くも悪くも、
自転車の選択幅の非常に広い国になりました。
アナタにとって自転車とは、生活を助けるモノですか?
それとも、
生活という言葉の指す内容に、食事・睡眠と同じ様に入っているモノですか?
隣の人は、そんなに悪い人なのですか?
自転車などの
モノの良し悪しを決めるのは、きっと求める気持ちなのでしょう。
しかしモノの数が増え、選び易くなる程に、その気持ちが見つけ難くなるというのは、
・・・カルマですな。