(30)巨大なる頭(天幕の中へヌッと)
視線を先方へ向け眺めると、夕霞の中に小さな部落が見える。
久し振りに人家を見たのだから、僕は実に嬉しかった。
昨夜はあの通りの始末で一睡もせず、今日は痛い体を引き擦るようにして、
ようやく此処まで来たのだから、どうか今夜は安眠したい、
そうでなくては、とても心身回復出来ない。
安眠するには、野宿よりも人家の方が良いのは決まっている。
そこで僕は例の部落の入り口に到り、
自転車で乗り込んでは
「失敬」だとか
「怪しい奴」だとか、
野蛮人独特の頑固な心で反発し、つまらぬ騒ぎになってもいけないと思ったので、
静かに自転車を降り、それを曳いて、端から端まで一軒一軒、
宿泊を請うて廻ったが、此処でもやはり宗教上の迷信の為、
先日のカツラガハーと同じく、宿泊を許してくれる家は一軒も無い。
しかも、此処の土人共はカツラガハーの土人と比べると、より人が悪い様だ。
じろじろ僕の自転車を見て、何か盗みたそうな顔をする。
僕は前にも言った通り、
野蛮人は猛獣に等しいとの意見だから、
なるべく平和的に応対するのだが、土人共はややもすると、
僕に危害を加えそうな身振りをするので、
これはイカン、こんな所に長居は無用!向こうが泊めてくれると言っても
御免こうむる!
こんな所に泊まっては、かえって安眠出来ないと思ったので、
仕方なくその部落を立ち去ったが、今夜も昨夜の様な事があっては堪らぬ、
土人の襲撃も怖いが、狼の襲撃はなお怖い様に思われるから、
あまり人家から離れる事無く、とある土人小屋の横手の森の中へ、
コッソリ天幕を張って、その中に寝たが、
非常に疲れていた為、前後正体も無くグッスリと寝込んでしまった。
すると
夜明け頃、何処からとも無く、
寒い風がスーっと吹いて来るので、
僕はふと目を覚ましてみると、外の方は大分明るくなった様だが、
森の中の、天幕内部は未だ
薄暗い。
今は何時頃だろう、と懐中時計を見るつもりで枕元の
マッチを探り、
何にも気付かずシュッと擦ると、たちまち天幕がグラグラ動き出した!
驚いて顔を上げると、一体何が如何なっていると言うのか?
その正体は分からないが、二本の長い角の生えた
巨大な頭が、
天幕の入り口から首だけ中に突っ込み、
フーフー鼻を鳴らして様子を窺っている。
さぁ大変!僕は昨夜に懲りているから、いきなり飛び起きるやいなや、
枕元にマッチと一緒に置いといた、まだ一つ残っていた手製の
爆裂弾に火をつけ、
遮二無二振り回すと、火花の飛び散る事、例の如く、
火花の一つが巨大な頭の鼻先に飛んで行ったので、
此方も驚いたが、彼方は更に驚いた。
すぐさま首を引っ込まそうとしたが、長い角が天幕に引っ掛かって中々抜けぬ。
とうとう天幕を引っくり返し、それを引き摺って走り出した。
僕は天幕の中に巻き込まれ、一緒に14,5間引き摺られたが、
天幕が木の根に引っ掛かって止まった為、
例の怪物は無理に首を引き抜き、人を威嚇する様な唸り声を立てて逃げ出した。
僕はもがいて、急ぎ天幕から這い出して眺めると、
逃げて行くのは一頭の巨大な
水牛であった。
逃げて行くのは一頭だが、付近には数知れない水牛が群れをなし、
朝風に吹かれて草を食べておったのが、逃げ行く水牛の唸り声に驚き、
いずれも首をもたげて、同じ様に唸りだす。その唸り声の物凄い事!
元々、これ等の水牛は皆、土人が飼っているものだから、
その唸り声を聞いて、奴らの現れて来るのは当然の事。
ただでさえ疑り深いのが
野蛮人の常、僕は水牛泥棒と疑われては堪らぬ。
泥棒の訳無いが、この辺の土人は何だか薄気味悪いので、
僕は揉め事を恐れ、天幕を片付けるのもアタフタと、
自転車に飛び乗るやいなや、雲を霞と逃げ延びた。
お陰で、今朝も朝飯を喰い損ねた・・・。
幸い、土人は追って来ないので、切りの良い所で朝飯を食べ、
そして目指すはブッダガヤの方角。
道はそれほど険しくも無いが、数日の間、一軒の人家も見当たらず、
人にも出会わず、山を越え、谷川を渡り、深林を通り、
地峡を過ぎては両壁の奇勝に驚き、平原を横切っては風になびく草を天打つ波かと疑い、
その間にはさしたる珍事もなく、ひたすら自転車を走らせて、
4月16日、仏教の本拠地として知られたブッダガヤに着いた。
ブッダガヤに滞在する事2日。
この地には立派な宿も沢山あるが、無銭番長の僕はそこに泊まる事も出来ず、
相変わらず市外に天幕を張って、自ら「風流生活」と痩せ我慢をし、
2日目に、彼の有名な仏祖の寺院へ参詣したが、
此処で仏教に関する大気焔を吐いたものだから、
寺僧先生は僕の事を
大学者とでも思ったのでしょう!
記念にと一つの大きな法螺貝と、一つの小さな銀仏とをくれました。
有り難く頂戴してポケットに収め、午前11時頃にその地を後にし、
なおも行く手を急ぎましたが、途中、
ガンジス河の支流であるクドロー河の岸に達し、
渡ろうにも橋も無く、河の深さも然程深くは無いと思われるも、
川幅広き事は、彼方の岸も霞む程で、濁流は音も無く西から東へ流れ、
その底がどの様になっているかも分からぬ。
こんな不案内な土地で、濁流に出くわした事ほど困る事は無い。
けっして臆病風を吹かす訳では無いが、何だか薄気味悪く、
徒歩では渡り兼ねるのだ。
はて困った事だ・・・何か工夫はあるまいか?と、
視線を河の上下に向けて眺めると、ズッと下流の方に、
数名の
土人の子供が、多くの水牛を連れている。
水牛は濁流の中へ入ってジャブジャブやっているから、
コレは行ける!と、僕は川沿いに子供の方へ進んで行くと、
子供の方では、この異国人たる僕の姿が余程珍しかったのでしょう、
初めは目を丸くして驚いていたが、暫くすると僕の方へ寄って来て、
恐る恐る自転車を指差したり、僕の洋服を撫でてみたり、
また髭を引っ張ったりして、無邪気に戯れます。
そこで僕は、一人の子供の頭を撫でつつ、半分手真似で、
「オジサンは、この河を渡れなくて困っているのだが、
水牛の背中に乗せて、渡らせてはくれないか?」
と伝えると、子供は皆首を立てに振り、
「ああ、渡らせてやるよ!」
と頷くから、有り難い!と僕は一頭の水牛に跨って、
河中に乗り込むと、その子供等も同じく水牛の背に跨り、
彼方の岸まで僕を見送ってくれました。
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続く。